Post nubila Phoebus

カスタリアの泉 ―太陽神を祀る神殿の中で―

「父さんと母さん、死んじゃったの?」
丘の上にある墓地の一角に、老人と子供がいる。
年の頃は九歳くらいだろうか。向日葵を思わせる金髪をした男の子――コガネは、大きな目に溢れんばかりの涙を溜めて、目の前にある墓石を見つめている。
傍らにいる老人――オルフェウスは、彼の問いには答えない。いや、何と答えることが最善なのだろうかと考えあぐねているようだった。

墓石には、コガネの両親の名が刻まれていた。
その年の初めに、コガネが住んでいる国――ヘレネス王国と、遥か北の地に存在しているトラキア王国との間に戦争が起こった。
争いに巻き込まれて傷付いた人々を助けに行って来る。そう言って、彼の父親は軍医として、母親は看護師として戦地へと向かって行った。それから数ヶ月が経過した頃、二人の帰りを待っていたコガネの元に、一通の手紙と小包が届いた。
――マカオン・アギュイエウス、及びクリュティエ・アギュイエウスは、名誉の戦死を遂げられましたことを御報告申し上げます。共に届いた小包の中には、母親がいつもつけていた赤い石の首飾りが入っていた。
コガネの元へと帰ってきたものはそれだけで、二人が帰って来ることはなかった。

「父さんと母さん、帰って来てないのに、どうしてお墓を作るの?どうして……っ!?」
遂に堪えきれなくなり、コガネは目から大粒の涙を溢し、言葉にならない声を上げて泣き始める。
「ぼくっ、独りぼっちになるの?やだぁっ、そんなのやだよぉ……っ」
縋るように、オルフェウスに抱きつく。
「大丈夫だよ。一人ぼっちになどさせやしないから、安心しなさい。これまで通り、私たちのところにいなさい」
オルフェウスは自分に言い聞かせるように言い、コガネを抱きしめる腕の力を強めた。

急に視界が明るくなっていき、意識が反転する。目を開けると、先ず最初に見慣れた天井が見えた。
「……久しぶりに見たな」
あれから時は流れ、十五歳となった金髪の少年――コガネは、ゆっくりと上体を起こすと背伸びをし、残っている眠気を振り払う。最近では夢に見ることもなくなった六年前の記憶が僅かに蘇ったことに、コガネは多少不安を覚える。何か嫌なことでもおきそうだ。
(あ、そういえば今日は午前中に用事があるんだった)
ベッドから降り、彼は急いで着替えを始めた。

***************

聞き覚えのない声が聞こえてくる。

<出して、私を此処から出して……。もう独りは嫌なの、此処に居るのは嫌なの、もう沢山。お願い、誰か……私を此処から出して……っ!>

ヘレネス王国に属する、ロクリス地方の町デルフォイの空の下。
雪のように白い長い髪と、紅玉(ルビー)を思わせる瞳が印象的な少女――マシロ・セレネは、突如として頭の中に響いてきた女の声に反応し、思わず空を見上げた。
雲一つない快晴で、真っ青な空はとても美しく見えた。
「?」
次に、キョロキョロと左右に首を動かして周囲を見渡す。待ち合わせ場所として選んだこの広場には、楽しそうに駆け回る幼い子供たちや、それを見守るように優しい目で眺めながら散歩をしている老夫婦、井戸端会議をしにやって来た主婦たちがいるだけで、彼女に声をかけてきそうな気配はまるで感じられない。
「うーん、空耳……かなぁ?」
身近な者たちに『天然』だの『ボケ』だの言われる自分のことだ、強ち間違っていないような気がする。マシロは血色の良い柔らかい頬に人差し指を当て、小首を傾げた。

<出して、此処から出して!誰か聞こえているのなら、私を助けて、カスタリアの泉から出して……!>

悲痛なその声は、再びマシロの頭の中に響いてきた。そして、その声の主が何処に居るのかも告げてきた。
「……あれ?もしかして、空耳じゃない……?」
マシロは確認の為に、もう一度周囲を見渡してみる。先程と変わらないその光景に、その声は自分だけにしか聞こえていないのだと知る。
カスタリアの泉とは、デルフォイの北に聳えるパルナッソス山の麓にある、太陽神アポロンを祀る神殿の中にある神聖な泉のことだ。その泉の水には、一口飲めばどのような病も怪我も癒してしまうのだという迷信がある。だが、実際に泉の水を口にしたとしても、そのような効果は得られない。ただの湧き水なのだが、そうだと判明していても、泉の水を求めてやって来る人々は絶えない。効果は得られずとも、御利益を求めてやって来ることに意義があるのかもしれない。
「うーん、カスタリアの泉に行ったほうが良いのかなぁ?」
「カスタリアの泉に行くのか?」
「ほわぁっ!?」
突然目の前に現れた少年に驚き、マシロは素っ頓狂な声を上げて後退る。
「そんなに驚かなくても……」
彼女の幼馴染である金髪碧眼の少年――コガネ・アギュイエウスは、がっくりと頭を垂れて、意気消沈する。
「ご、御免ね、考え事してたの!だからね、コガネの所為じゃないんだよ!?」
彼の落ち込みぶりに動揺したのか、マシロは身体を振り子のように動かしながら、謝罪する。慌てた彼女の様子と奇妙な行動が可笑しいので、コガネはぷっと吹き出して笑ってしまった。
「謝らなくても良いよ、怒ってないからさ。ちょっと吃驚しただけ。で、改めて訊くけど、泉に何か用があるのか?」
今日は二人で町の直ぐ近くにある野原に花を摘みに行く。昨夜、そう約束をした。ただ、コガネが午前中に用事があると言うので、それが済んでから一緒に行こうと、この広場で待ち合わせをしていたのだ。
先程の呟きを耳にしたコガネは、マシロの気が急に変わったので行き先が変わったのか、そう思ったようだ。
するとマシロは言葉を詰まらせ、冷や汗を流し、目を忙しなく泳がせたり、身体の向きを前後左右に変えたりと、明らかに不審な行動を取る。こういった行動を取った場合、彼女は確実に隠し事をしようとしている。長い付き合いにより、そのことを熟知しているコガネは、彼女の目をじっと見つめる。
「……マシロ、俺に隠し事をする気か?」
真っ青な空の色をした目に凝視されたマシロは、蛇に睨まれた蛙宜しく硬直してしまう。その状態が暫し続いたが、コガネに退く気がないことを知ると、彼女は遂に諦める。眉を八の字にし、上目遣いでおずおずと話し始めた。

――コガネがやって来る少し前に、女性の声がしてきた。助けて欲しい、カスタリアの泉から出して欲しいなどと言っていたと、マシロは正直に伝える。そして、その声は自分だけにしか聞こえていないようだった、ということも付け加えておいた。
(事実は事実なんだけど、私の勘違いかもしれないし……。いくらコガネでも、信じてくれないだろうなぁ……)
内心そう思っていたのだが、彼は彼女の言うことを馬鹿馬鹿しいと一蹴することはなく、話を最後まで聞いてくれた。
「じゃあ、一緒に泉に行こうぜ。何か遭ったとしても、二人ならどうにかなるかもしれないしさ。……マシロ一人だと心配だし……さ」
僅かに頬を赤らめ、コガネは恥ずかしそうに目を逸らす。
最後の方は段々と声が小さくなり、ごにょごにょ言っているので、マシロの耳には上手く届かなかったのだが、彼女はその言葉に目を丸くした。
「……私の話、信じてくれるの?馬鹿にしないの?」
「は?何で俺がマシロを馬鹿にしないといけないんだよ。マシロが俺に嘘を吐く訳がないだろ」
上手に嘘を吐くマシロを見たことがないので、コガネは空耳ではないのだろうと断言する。
仮に今の話が嘘だったとしたら、彼女がこんなに冷静に話すことが出来るはずがない。彼女は、面白いと思う程に嘘を吐くのが下手なのだ。考えていることが、直ぐ顔に出てしまう。先程の挙動不審極まりない行動を見た後なので、尚更そのことが事実なのだろうと確信する。
確かに、信じがたい部分がないこともないのだが。
「……有難う、大好きだよ、コガネ!」
「うわぁっ!?」
頭を掻きながら照れくさそうにしているコガネに、マシロは不意に、彼が信じてくれたという喜びのあまり勢いよく抱きついた。
(う、うわっ、やわらかっ!)
抱きつかれた方はというと、顔を茹蛸のように真っ赤にして、あたふたとしているのだが、彼女はコガネの様子に全く気がつくことはなく、より一層、腕に力を込めたのだった。
彼が彼女に対して抱いている思いにも、気が付かずに。

***************

カスタリアの泉がある神殿は、デルフォイの北方に聳えるパルナッソス山の麓に建っている。神殿の他にも、嘗ては円形演劇場として利用されていたのだろうと思われる遺跡も残されている。その総面積はヘレネス王国にある神殿や遺跡の中で最も広いことで、国内では知られている。
歴史学者や考古学者、オリンポスの神々を信仰している人々がそれぞれの目的を持って訪れることが多く、その御蔭でデルフォイの経済は潤っている。

――町を出て半時ほど経過した頃。
神殿へと辿り着いた二人は、其々入り口の柱に凭れて、暫しの休憩を取る。石で出来たその柱は適度に冷たく、心地良い。
「ふぅ……。神殿に着いたは良いんだけど、泉はこの中の何処にあるんだったか……」
此処は地元の有名な観光名所なのだが、入り口の前までは来たことがあっても中にまでは入ったことがない。なので、神殿の内部構造がどうなっているのかを知らなければ、泉がどのようなものであるのかも知らないコガネは、少々困惑する。
正直なところ、コガネは神殿や遺跡などといった類のものに興味がない。
「あ、そっか。コガネはあんまり来たことがないんだったね。えっとね、泉は神殿の一番奥にあるんだよ」
幸いなことに、マシロは泉の場所をちゃんと知っているようだった。
そういえば彼女は、コガネと彼女が身を寄せている孤児院の院長でもあり、この神殿の管理者でもあるオルフェウスの仕事を手伝いをする為に、月に何度か此処を訪れているのだということを思い出す。
六年前にヘレネス王国と今は亡きトラキア王国との間で勃発した戦争で、軍医と看護師であった両親を失ったコガネと、物心ついて間もなく両親を事故で亡くしたマシロは共に身寄りがなく、孤児院に世話になっている。
「じゃ、行こっか!」
彼女は躊躇することなくコガネの手を握ると、引っ張るようにして、ずんずんと奥へと進んでいく。
(……いつまで経っても、子供扱いだな)
自然にさり気なく手を繋いで貰えるのは嬉しいのだが、それがどうにも子供扱いをされているような気がして、少しだけ癇に障る。
幼い頃泣き虫で、やや苛められっ子の気があったコガネの相手をしてくれたのは、一つ年上の彼女だった。時が経つにつれて、大切な幼馴染から恋愛対象へと思いが変化したのだが、十五歳になった今も年下の子供を相手にしているような態度で接せられてしまう。
そのことが、異性として全く意識されていないのではと、コガネ少年を大いに悩ませている。

そんなことをもやもやと考えているうちに、二人はいつの間にか神殿の奥へと辿り着いていた。
其処は屋根がなく、吹き抜けになっていた。陽の光が直接降り注ぎ、美しい大理石で囲まれ縁取られている泉の水を、キラキラと輝かせていた。
「へえ、こんな風になってたんだな」
この泉の水には癒しの力がある、という迷信をふと思い出す。だが、コガネの目には、ただの水にしか映らない。
「なあ、マシロ。声、聞こえるのか?」
直接この場に来れば、何かしら分かるだろう。そう安易に考えてやって来た、という訳なのだが、マシロの様子にこれといった変化は見られない。
「んー、聞こえない……。やっぱり、気のせいだったのかなぁ……?」
不思議な声に惑わされず、当初の通り野原へ花を摘みに行けば良かったか。困り果てたマシロが不意に水面に顔を映したその時であった。

<捕まえた>

不敵な声が聞こえたのと同時に、泉は強烈な輝きを放つ。異様なその眩しさに、コガネは反射的に目を瞑ってしまう。瞼の裏がチカチカして、変な感じだ。それが治まった頃、恐る恐る目を開ける。
「……?」
目を瞑る以前と変わっているところは見受けられなかった。マシロはというと、泉の傍に立ち尽くしたままで、ぴくりとも動かない。
「マシロ、何ともない……」
「ふふふ……」
身体に異常はないか尋ねようと近寄るが、コガネは数歩前で足を止める。彼女は何が可笑しいのか、嬉しいのか、両手を見つめて笑っているのだ。
「漸く……漸く手に入れた!私はこれで自由よ……!」
唐突に妙なことを言い出した彼女に驚き、コガネは喉まで出かかった言葉を詰まらせる。
「封印の力が弱まったのが幸いだったわね。御蔭で『同調者』は見つけられて、都合良く器まで手に入れられてしまったのだもの」
これで自由、封印の力が弱まった、『同調者』が見つかった、器が手に入った。
彼女はそう言った。それは一体、何を意味しているのだろうか。今のこの状況が把握出来かねているコガネには、意味が分からない。
まさか、目の前にいる彼女はマシロではないのだろうか。だが、どう見ても其処に居るのはコガネの幼馴染である少女だ。
しかし、本当にそうなのだろうか。
彼女の姿をし、彼女の声をしているが、どことなく違和感を感じる。では、これは誰であるというのか。

「……あんた、誰だ?」
やっとの思いで絞り出した声は、震えていた。彼女は振り向き、毒花のような笑みを浮かべる。
「誰かに名を尋ねる場合は、先ずは自分から名乗りなさいな、坊や?」
マシロらしい破顔一笑ではないその笑みと、普段とは異なるその声音に、コガネは悪寒が走るのを感じる。その反応に、『これ』はマシロではない、と確信する。
「……コガネ・アギュイエウス」
眼前に佇む少女を訝る目付きで見つめながら、コガネは正直に名乗る。そうしないと、『それ』の正体が何であるのかが分からないと判断したからだ。
すると彼女は眉根を寄せ、不快そうに顔を顰めた。
「『道路の保護者(アギュイエウス)』……嫌な名ね。この神殿に祀られている太陽神の添え名ではないの。気分が悪いわね」
「あんたが先ず自分から名乗れって言ったんだろ。ちゃんとその通りにしたんだから、あんたも名乗れよ!」
やれやれ、と言いたげに肩を竦める彼女の態度に、コガネはむっとする。
「下等な人間如きに対等に接してやる義理はないと思うのだけれど、この器の持ち主を連れて来てくれたことには感謝しているから、特別に教えてやっても良いわよ。我が名はリゲル、『正義の執行者(プラクシディケ)』の名を持つ者なり!」
彼女の口から出た名は、彼女のものではなかったことにコガネは愕然とする。マシロの姿をした誰か――リゲルは口の両端を吊り上げると、精神を集中させる。
「其処とも知らず奥津城(おくつき)を彷徨う死霊よ。我が力、生く(むすい)により(くら)(みち)から現し世に蘇るべし――『ヘカテの御魂(みたま)振り』!……太古の昔に屠られし大蛇(ピュトン)よ、出てくるが良い!」
彼女の背にある泉が禍々しい閃光を放ち、耳障りな音と共に、とてつもなく巨大内蛇の魔物が現れる。神代の時代、この地へとやって来た太陽神アポロンによって屠られた蛇の化け物の名で呼ばれたそれは、視界にコガネを収めると威嚇をしてきた。
「……素敵!これ程までに私の力を引き出せる器は初めてではないかしら……!?」
得物に狙いを定めたピュトンは、それを腹の内に収めようと、裂けんばかりに大きく口を開き、コガネに襲い掛かってくる。その攻撃を辛うじて躱しながら逃げ回っているコガネを余所に、リゲルは手に入れたばかりの身体の状態に満足して、うっとりと目を細めて悦に入っている。
時が経過していくにつれ、疲労が生じてくる。それはコガネの体を蝕み、僅かな隙を生む。それを目敏く見つけたピュトンは尾を鞭のように動かして、壁にコガネの身体を叩きつけると、その腹に喰らいついた。
「がぁ……っ」
言葉にならない悲鳴が零れ落ちる。
腹に穿たれた牙が少しずつ体内に食い込んでいき、圧迫された背骨がミシミシと嫌な音を立てているのが聞こえてくる。
「ぐ……っ」
ピュトンの牙で内臓に傷が付いたのだろうか。食道を通り、競り上がってきた血液が口から零れ出てくる。
「あら、まだ死んでいなかったの?だけれど、もう限界のようね?腸をぶちまけた死体を見るのは趣味ではないから、これで失礼す……っ」
全てを言い終える前に、声が不自然に途切れる。リゲルは目を見開き、口を開けたまま硬直してしまっている。
(やばい……段々痛みがなくなってきた……。そうか、そろそろ俺は死ぬのか……)
黄泉路へと足を踏み出した時、先にあちらへと旅立った両親は迎えに来てくれるだろうか。
多量の失血により、意識が朦朧としてきたようだ。死ぬかもしれないというのに、そのことが酷く他人事のように思えて仕方がない。
(御免、マシロ……。俺が……余計なこと言ったから……)
瞼が鉛のように重たく感じられ、コガネは逆らうことなく目を閉じた。間もなく、彼の意識は暗転した。
その時だった。

「……ガ……に、コガ……ネに、何するの!出て行って、私の中から出て行ってぇ――っ!」

リゲルに身体を乗っ取られてしまったはずのマシロが叫ぶ。
その叫び声と同時に、煌びやかな光の粒子が現れてピュトンを包み込み、光の柱となる。その巨体を一塊の肉片、塵一つ残さず消し飛ばしてしまった。

ピュトンの口に銜えられていたコガネは宙に舞い、石畳の上に叩きつけられるるが、既に意識がない為か反応がない。
「コガネ、コガネ!お願い、目を開けて……!」
リゲルから身体を奪い返したマシロは、すぐさまコガネのコガネの元に駆け寄る。
鮮血の溢れ出る傷口に手を翳し、彼女は精神を集中させた。その手から発せられた不思議な淡い光は、ピュトンの牙に穿たれたことで出来た穴を塞ぎ、痕も残さず綺麗に元通りにしてしまった。失血により蒼白になってしまった肌も、すっかり血色が良くなっている。
「……あれ?此処って、神殿の中だよな……。死んだってのに場所変わってねえよ……。お花畑で綺麗なお姉さんが迎えに来てくれるんじゃないのかよ……ちょっと、残念」
傷が完治したことで意識を取り戻したコガネは、ゆっくりと目を開くと寝惚けた事を言ってのけた。どうやら、自分はもう死んでしまっているのだと思い込んでしまっているらしい。
「良かったぁー!!!」
「いでっ!!?」
コガネが目を覚ました事が余程嬉しかったのか、マシロは勢いあまって頭突きを喰らわしてしまう。その衝撃の強さに、コガネはもう一度意識をなくしかけたが、加害者であるマシロは至って無傷である。
「あ、御免」
彼女は石頭であるらしい。
「ま、前だけじゃなくて後ろも打った……。ん?あれっ!?もしかして俺、生きてるのか!?え、もしかしてマシロか!?リゲルとか言う奴じゃないんだよな!?」
マシロの頭突きにより、『自分は生きている』のだという事に気が付いたコガネは、飛び起きる。慌てて腹に手をやると、空いているはずの穴は開いておらず、ただ服に血が付いているだけであった。そして、傍にいる彼女が『マシロ』であることにも気が付くが、いまいち状況を掴みきれず、混乱する。
周囲を見渡すと、リゲルが呼び出したあの大蛇の化け物も姿を消している。自分が意識を失っている間に、何が一体どうなったというのか。
「うん、私だよ、マシロだよ!えっとね、コガネが酷い事されてるのが見えてね、どうにかしようと夢中で暴れてたら……戻れたの!それにね、よく分かんないんだけど、不思議な力……魔法って言うのかな?それが使えるようになってたの、分かんないけど!」
何故使えるようになったのか理由は分からないが、その力の御蔭で一命を取り留めることが出来たのか。と、コガネが納得すると、マシロは突然身体を前後に揺らし始める。というよりも、舟を漕いでいると言った方が正しいかもしれない。
「どうかしたのか!?」
前のめりに大きく倒れた身体を抱き止める。
「ん……凄く……眠い……の……」
彼に身体を預けると、彼女はそのまま健やかな寝息を立てて眠りの世界へと旅立ってしまった。
「……?よく、分かんねえ……。えーっと、とりあえず……帰るか……」
深い眠りに落ちてしまった彼女を背負い、デルフォイへと向かって歩き出す。
自分を襲ったあの化け物が何処に消えてしまったのか、それは分からない。そして、リゲルも消えてしまったのか、それとも未だマシロの身体の内に潜んでいるのか。疑問は幾らでも浮かんできて尽きないが、いつまでもこの場に留まり続けるわけにはいかない。
――また、何かが起こってはいけない。
その不安が、コガネの足を動かした。

***************

デルフォイの町外れの敷地に、二人が身を寄せている『ムサゲテス孤児院』がある。

其処まで無事に辿り着いた頃、青空は夕空へと姿を変えていた。コガネは背負っているマシロを落とさないように気を付けながら、物陰からこっそりと様子を窺う。
化け物に襲われて出来た傷はマシロの不思議な力によって、跡形もなく完治している。だが、服はボロボロの上、血塗れだ。誰かに見つかってしまっては、大騒ぎになることは間違いない。
(妙な感じはするけど、此処まで見つからずに来られたんだ。最後まで気を抜かないようにしないと……)
最大限に注意を払い、裏口から中へ入ろうと試みたのだが、ドアノブに手をかけようとしたところで、ちょうど遊びから帰って来た孤児院の子供たちに呆気なく発見されてしまい、大声を出されてしまった。
「どうしたんだね!?」
その声を聞きつけ、院長室から飛び出してきた老人――オルフェウス院長に、コガネはあっさりと捕まってしまったのだった。

知的な老紳士、といった風貌のオルフェウスは、先ずはマシロをベッドに寝かせると、次に所在無げに突っ立っているコガネを着替えさせてから、院長室へと通した。
「どうして、あんなに血塗れで帰って来たのかね?見たところ、怪我はしていないようだが……」
てっきり説教をされるものだと思っていたコガネは、その声音の優しさに驚き、伏せていた顔を上げる。オルフェウスの表情は、とても彼のことを心配しているように見えた。その顔を見たコガネは、おずおずと口を開く。
「……信じてもらえないだろうけど」
今から口に出すことは全て、真実だ。だが、現実離れしているのも事実だ。正直に話したところで、信じてもらえる保証はないが、嘘を付くよりはずっと良い。嘘を付くのがあまり好きではないコガネは、神殿で起こった出来事をオルフェウスに全て打ち明けた。

「ふむ……」
話を聞き終えたオルフェウスは頤に指を当て、暫し黙考する。
「デルフォイの神殿は、神代の時代には既にこの地に存在していたと言われている、とても歴史の古い神殿だから……我々が知らないこともあるだろうね」
神殿の管理者であるオルフェウスが先代の管理者から引き継いだ資料、文献、書物には、リゲルという存在がカスタリアの泉に封じられていると言うことは、一切記されていなかった。
デルフォイの神殿は、嘗てこの地を荒らしていた大蛇――ピュトンを太陽神アポロンが退治し、デルフォイを聖地として定め、人々に神託を授ける為に建立されたものだ。という伝説ならば、幾らでも記されているのだが。
要するに、この場にある資料には同じような事柄しか記されておらず、リゲルが何者であるのかはオルフェウスにも分からない。そのことに、オルフェウスは深い溜め息を吐いた。
(院長先生でも、分からないのか……)
デルフォイ一の物知り、と町の人々に謳われているほどの彼でも知らない事があるのだなと知り、コガネはがっくりと肩を落とす。
「ああ、そうだ。デルフォイでは情報を得られないが、アテナイにある『アレスの丘(アレイオス・パゴス)』の図書館に行けば、何かしら関係のある文献があるかもしれないなぁ」
「アレイオス・パゴス?」
聞き慣れないその響きに、コガネは鸚鵡返しをして小首を傾げた。
「アレイオス・パゴスは、アテナイにある最高裁判所の通称だ。併設されている図書館は、ヘレネス王国一の蔵書量を誇る。あそこは裁判所だけに、ヘレネスの歴史や遺跡物に関する文献が数多く揃っているはずだ」
そして運が良ければ、リゲルの正体について手がかりが得られるかもしれない。あくまでも可能性の話なので、確実に見つかるはずだと断言することは出来ないが。
「マシロは、どうにか戻れたとは言ってたけど、リゲルを追い出したとは言ってなかった」
リゲルは未だマシロの中に潜んでおり、身体を奪おうと画策し、機会を窺っているのかもしれない。と、コガネは胸の内の不安を口に出す。
「ほんの少しでも手がかりが手に入るのかもしれないなら、俺、アレイオス・パゴスの図書館に行きたい……!」
切っ掛けはマシロの言葉だったとしても、不安がる彼女の背中を押して、あの場所へと導いたのは自分だ。原因の一つとなってしまった事に責任を感じているということもあるが、マシロがマシロでなくなってしまうことを避けたいという気持ちの方が強い。
コガネにとって、マシロはかけがえのない存在なのだ。
神妙な面持ちで見つめると、オルフェウスは目を閉じ、軽く息を吐いた。

(やれやれ。マカオンとクリュティエの子だね、君は)
戦争の煽りを受け傷ついている人々の手助けをしに、戦地へ赴くのだ。そう言って戦場へと向かっていった二人――コガネの両親の姿が、瞼の裏に浮かぶ。
「どうやら本気のようだ。止めても、無駄だろうね。……分かった、君の気が済むまで、とことん突き進みなさい」
ただし途中で投げ出すことは許さない。それが条件だと、オルフェウスは釘をさした。
「……守れるね?」
コガネが黙って頷くと、オルフェウスは立ち上がり、部屋の片隅にある棚の中から何かを取り出してきて、それを彼に手渡した。
「これは?」
「旅券だよ。国外に出ることはないだろうけれど、旅に出る場合は持っておいた方が無難だからね。とても大事なものだから、絶対に失くしてはいけないよ?」
ヘレネス王国領土を記した地図と、最低限の路銀も渡される。
「この御時世だ、何があるか分からないから乗合馬車を利用して移動した方が良いのだがね、アテナイに着くまでにあっという間に尽きてしまうくらいしか、援助出来ないんだ。だから、よく考えて使うんだよ?申し訳ないけれど、もしも足りなくなってしまった場合は自分でどうにかしておくれ」
この孤児院は融通が利くほどの貯蓄がないのでね、とオルフェウスは自嘲気味に笑う。
「経済面が豊かじゃないことは、この孤児院で暮らす誰もが知ってるよ」
それ故に、ある程度の自給自足の生活を余儀なくされているのではないか。
寄付金を募ると、有難い事に快く寄付をしてくれる人は多い。けれど、この孤児院には自分も含めた育ち盛りの子供たちが勢揃いしており、彼らの世話をしてくれる者たちもいる。その為、沢山の金銭が手に入ったとしても、あっという間に金欠に追い込まれてしまうのだ。

本人に悪気はないとは言え、コガネの言葉はオルフェウスの胸にぐさりと突き刺さる。結構気にしているようだ。オルフェウスは黙り込んで、項垂れてしまう。
(……しまった、言わないでいいことを言っちゃったよ……)
素直なことは、決して悪いことではない。だが、時として素直すぎる言葉は刃と化して、人の心を傷つけてしまうことがある。
――失言だった。
コガネは深く反省した。

***************

翌日。
夜が明けきらないうちに目を覚ましたコガネは、昨夜のうちに纏めておいた荷物を手に持ち、こっそりと孤児院を出た。
――少しでも早くマシロを助けたい。その思いが彼を駆り立てるのだろう。
「えーっと、街道を南下して行けばいいんだよな?」
この世界には、人間を襲う魔物が存在している。そして時折、盗賊が現れることもある。そんな事情がある為、人々は乗合馬車に乗ったり、護衛を雇ったりして、旅をするのだ。
しかし、金銭に余裕がないコガネは節約する為、その方法を諦めた。
人々の気配が多い街道は、魔物が警戒するので近寄ってくる確率が低いと父親が言っていたことを思い出したので、コガネは地図を広げて街道を確認しているのだ。
「先ずはボイオティア地方のカドメイアを経由して、キタイロン山を越えて……そうするとアッティカ地方に入って、エレウシス、コロノスを過ぎれば、王都アテナイに辿り着く……と」
順路を確認するように独り言を呟きながら、町の出口を目指して歩いていく。
「あ、この地図、領土が書いてあるだけだ。……アテナイに着いたら、アレイオス・パゴスが何処にあるのかを聞かないとなぁ」
あの後、アレイオス・パゴスはアテナイのどの辺りにあるのかとオルフェウスに聞いたような気もするのだが、その重要な部分の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。何故、メモ用紙に記しておかなかったのか。
コガネは激しく後悔するが、もう遅い。
町の出口はもう直ぐ其処まで迫っており、然も見慣れた人物を見つけてしまった。

「遅かったね、コガネ?」
「マシロ!?」
未だ眠っているものだとばかり思っていたのだが、マシロは旅支度を整え、待ち伏せをしていたのだ。
「な、何で!?」
あたふたとするコガネを見て、マシロはにっこりと微笑む。
昨日、不意に目を覚ましたマシロは喉の渇きを覚え、水を飲みに台所へを向かった際に院長室の前を通りがかった。少し開いた扉の向こうから、コガネとオルフェウスが話しているのが聞こえてきたので、息を潜めて聞き耳を立てていたというのだ。
「コガネのことだから一人で抱え込んで、私に黙って行くだろうなって思って、それで待ち伏せしてみたの。大正解だったね!あ、大丈夫だよ?院長先生にはちゃんと許可貰ったんだから!」
誇らしげに旅券を見せつけてくるマシロに呆れ果て、コガネは肩を落として項垂れる。
「……帰れって言っても、帰らないんだろ?」
確かに、彼女には何も告げずに一人でアテナイへ向かおうとしていた。神殿での出来事を気にしているコガネは、どんな顔で会ったらいいのか、分からなかったからだ。図星を指されたコガネは、ばつの悪そうな表情で彼女を見る。
「うん、帰らないよ?一緒に行って、一緒に調べようね。一人で悩むより、二人で悩んだ方が早く解決しそうな気がしない?」
上目遣いでコガネの顔を覗き込むと、彼は照れ臭そうに顔を背けた。
「……気の所為だろっ」
「え?そうかなぁ……?」
彼女はおっとりとしていて大人しそうに見えるが、意外と強情だ。その事をよく知っているコガネは、つかつかと歩き始める。数メートルほど進んだところで足を止め、振り返る。
「一緒に行くんだろ、置いてくぞ!」
「……うん!」
(素直なんだけど、素直じゃないなぁ)
彼女は満開の花のような笑みを浮かべると、コガネの後を小走りで追いかけた。